復活したフランス最古の銘醸ワイン産地 ローヌ地方の ヴィエンヌ – セイシュエル その1  

ヴィエンヌのピラミッド
古代ローマ時代の円形競技場の塔 Cirque romain de Vienne  
2世紀末につくられたが、19世紀に発掘。競馬・戦車競走用の円形競技場の中心に立つ塔という。一般にはヴィエンヌのピラミッド Pyramide de Vienne として知られ、隣に星付きレストラン・ピラミッドがある。

ヴィエンヌ ‐ セイシュエルのワインの歴史

フランス中央部にある古い街ヴィエンヌをご存知でしょうか。フランス第二の都市リヨンから車で30分のところにあります。フランス料理に詳しい方は、200年続くガストロノミックなレストラン「ピラミッド」でご存知かもしれません。20世紀前半に活躍した料理人フェルナン・ポワンの下には若きポール・ボキューズもいました。ワインに詳しい方は、北ローヌの著名ワイン産地コートロティの対岸の街という説明がいいでしょう。フランス屈指の大河ローヌ河の畔にある人口3万人のヴィエンヌの歴史は古く、2000年前の歴史的建造物が複数残っており、考古学的にも有名な場所です。この地は古代ローマ時代から経済的・軍事的要衝として栄えていました。そしてその周りではワインがつくられてきたのです。

ヴィエンヌの旧市街の神殿
ヴィエンヌの中心街にあるオーギュストとリヴィの神殿 Temple d’Auguste et de Livie。 起源1世紀の建築で、フランスで古代ローマ時代の神殿は、ニームとこのヴィエンヌしか残っていない。キリスト教伝来以前の建物だが、中世は宗教勢力の建物として使われた。

古代ローマ時代、このヴィエンヌの地はアロブロゲス族が支配し、彼らがワインを造っていました。そのヴィエンヌのワインは遠くローマまで運ばれ、彼の地で絶賛されていた記録が複数残っています。例えば、紀元1世紀にラテン語で書かれたローマの大プリニウスの「博物誌」には、Taburno (仏語:Taburnum タブルナム)、 Sotanoque (Sotanum ソタナム)、 Ellinco(Ellincum エリンカム)の3つのヴィエンヌのワインが高く評価されている、と書かれています。この時代のワインは現在とは異なり、「木のタール」で風味付けられたようですが、当時のブドウ栽培の北限であり、秋が深まってから熟すブドウからつくられたワインは、古代ローマ帝国属州のワインの中でも格別の出来だったようです。ボルドーやブルゴーニュのワイン生産より前に海外で称賛された、最初のフランス銘醸ワインといって差し支えないでしょう。

中世に入り、コート・ロティやコンドリュー、エルミタージュ同様、ヴィエンヌのブドウ畑は宗教勢力に所有されました。この時期もヴィエンヌのワインの名声は様々な文献に残っています。そして1789年のフランス革命後も、その評価は変わりませんでした。1816年から1866年までに5版を重ねたアンドレ・ジュリアンの大著 “Topographie de tous les vignobles connus” において、ヴィエンヌやその北臨のセイシュエル Seyssuel村のワインは、格付け最上位に入っています。この時期まではフランス屈指の銘醸ワイン産地だったのです。

19世紀後半、ヴィエンヌのワインは大きな打撃を受け、20世紀前半には消滅してしまいました。その理由は4つあげられます。

- 19世紀中盤から鉄道がフランス全土に普及し始めます。この鉄道の到来によって、南仏から安いワインが到着するようになるだけでなく、他の産地との競争が激しくなりました。45度を超えるような急傾斜面でのブドウ栽培は機械化ができないため生産コストが高く、適切なマーケティングが行われなかったことで、ワインが販売不振に陥ってしまいました。この産地を引っ張っていく人材がいなかったともいえます。

- 1880年代に到来したブドウの根を食い荒らすフィロキセラ禍で、すべてブドウの樹を引き抜き、植え替える必要が生じました。これはかなりの生産コスト増でした。

- 崖のような急傾斜でのブドウ栽培にはかなりの人手が必要ですが、第一次世界大戦で若年層の労働人口が大きく減少しました。これによって放棄されたブドウ畑が少なくなかったようです。

上記3つの問題は北ローヌのどのワイン産地にも当てはまる問題でしたが、ヴィエンヌのワイン生産にとって厳しかったのは、ヴィエンヌ自体の工業化でした。繊維産業等の地元の工場が労働力を吸収し、儲からないワイン生産は誰もやらなくなってしまったのです。

1930年代、フランスのワイン業界は原産地呼称AOCのシステムがつくられ、ヴィエンヌに隣接するコート・ロティ、コンドリューはAOCを獲得。しかし、ヴィエンヌにAOCを取得させようというワイン生産者はいませんでした。2000年以上銘醸ワインを生み出してきたブドウ畑は放置され、あっという間に消滅してしまったのです。

戦後、コートロティ、コンドリュー、サンジョセフ、エルミタージュといった北ローヌのワイン産地は経済的な苦境に喘ぎながらも、少しづつブドウ畑を増やしていきました。そして1980~1990年代、アメリカ市場を足掛かりに世界中で大きな成功を得たのです。同時にワイン生産者は大きな問題に直面しました。フランスの原産地呼称委員会INAOが新たに開墾した畑にAOCを与えなくなったのです。生産を増やしたくても増やせない問題は、特に新興の若いワイン生産者達には深刻な問題でした。

イブキュイロン フランソワヴィラール ピエールガイヤール
François Villard, Yves Cuilleron et Pierre Gaillard 画像引用:Le Tout Lyon

1996 年、ピエール ガイヤール、フランソワ ヴィラール、イブ キュイロンの3人組はヴィエンヌの隣町セイシュエルの地にブドウを植えました。彼らは古い書物を丹念に読み、かつて銘醸ワインがその地でつくられていたことを知っていました。そして土壌分析を行い、コート・ロティに近いテロワールがそこにあることを見出していたのです。しかし、当時は「気が狂った3人のギャンブル!」という扱いでした。実際、「彼らは宇宙人だ!」と言われた笑い話が残っています。「急傾斜の畑からつくられ、高コスト&高価格は不回避にも関わらず、AOCを取得できないヴァン・ド・ペイ格付けのワインは、仮に美味しくても販売することなど不可能!」、というのが当時のワイン関係者達の意見だったのです。

この3人組の共同ワイナリーはヴァン・ド・ヴィエンヌ Vins de Vienneと名付けられ、彼らのセイシュエルのワインは1998年にリリースされました。そのワイン名は古代ローマ時代の文献からとられ、ソタナムと名付けられました。1998年から2001年まで4年連続で良作年が続いたこともあり、若木から造られたにも関わらず、大成功を収めました。もっとも、急傾斜面でのワイナリー経営は経済的に厳しく、最初の10年は困難を極めたようです。彼らの成功に触発され、このヴィエンヌ-セイシュエルの地には次々生産者が畑を持つようになりました。名声のあるステファン・オジエ、ルイ・シェーズ、シャプティエ達が生産を開始したことも大きかったようです。現在23人のワイン生産者がおり、ブドウ畑は計50haを超えています

ヴィティス・ヴィエナ VITIS VIENNA と AOC取得

2004年、ヴィエンヌ-セイシュエルに広がるブドウ畑の生産者たちはヴィティス ヴィエナ VITIS VIENNAという生産者組合をつくり、フランスの原産地呼称を統括するINAOにAOC格付け取得の申請をしました。彼らは当時のヴァンドペイの格付けには満足していなかったのです。しかし、これは門前払いを食らいます。その後地質調査等様々な資料を揃えて準備を行い、2015年再度INAOに書類を提出し、審査が始まりました。現在IGP・コリーヌ・ロダニエンヌ IGP Collines-Rhodaniennesの格付けですが、ここからまずAOC Côtes-du-Rhône コート・デュ・ローヌ取得を目指しています

生産者たちは、「2000年以上の歴史のあるワイン産地であり、テロワールは様々だが、コート・ロティに近い。ローヌ河沿いにあり、ローヌの伝統的な品種を使用しているのだから、AOCコート・デュ・ローヌに含まれるのは当然だ!」と言います。但し、この申請には大きな関門が待ち構えています。それは「県境」です。AOCコート・デュ・ローヌは広い範囲で認められていますが、ローヌ県Rhône、 ロワール県Loire、 アルデッシュ県Ardèche、ドローム県Drôme、ヴォークリューズ県Vaucluse、ガール県Gardの6つのみ。ヴィエンヌ-セイシュエルの畑はイゼールIsere県にあり、この県にはAOC コート・デュ・ローヌは存在しないのです(因みにヴィエンヌの対岸にあるAOCコート・ロティはRhône県)。つまり「県境を超えて原産地呼称 AOC の範囲を拡張可能か?」という問題があります。過去に例はありますが、これは一筋縄ではいきません。

AOC Côtes-du-Rhône取得後、AOC Côtes-du-Rhône Villageや独立したAOCヴィエンヌ-セイシュエル等の上級AOC(クリュ)獲得を目指すのが生産者達のプロジェクトのようです。「北ローヌは1956年のサン・ジョセフ以降新しいAOCがない。一方で南ローヌはこの間にジゴンダス、ヴァケイラス、ケラーヌ等の上級AOC(クリュ)が出来た。北ローヌにも独立した新しい上級AOC(クリュ)がつくられてもいい時期だろう。」 「ヴィエンヌ-セイシュエルのワインは価格が安いAOCコートデュローヌで留まる理由はなく、上を目指すべき。テロワールの面でも、味わいの面でも、価格の面でもコート・ロティ、コンドリューをはじめとする北ローヌの上級AOC(クリュ)と同じレベルだ。」というのが彼らの主張です。

彼らの意見は仰る通りだと思うのですが、単独のAOC(クリュ)をこのワイン産地が獲得するのには、相当な年月がかかる予感がします。近年のINAOの動きを見ていると、一つのステップに10~20年が当たり前です。それ以上かかる場合もあります。幸運を祈るしかありません。

ヴィエンヌ-セイシュエルのブドウ畑の現在

1996年に4haから始まったこの古くて新しいワイン産地は、ヴィエンヌの街から北に広がっており、現在50haを超えています。この面積は、遠からず100haに達すると見込まれています(ポテンシャルとして150ha以上)。行政的には、ヴィエンヌ Vienne、セイシュエル Seysssuel、シャス・スール・ローヌ Chasse-sur-Rhôneの3つの市町村にまたがります。ブドウ品種は、赤ワインはシラー、白ワインはヴィオニエですが、一部の生産者は赤ワインに少量のヴィオニエを混ぜています。生産量は赤ワインが約80%、白ワインが約20%と言われており、主に赤ワインが生産されています。北ローヌ特有の急傾斜地でブドウ栽培で行われ、傾斜角45度以上は当たり前。トラクター等による機械化は難しく、場所によっては馬で耕作を行っています。

ヴィエンヌ セイシュエル の急傾斜のブドウ畑
傾斜の厳しいヴィエンヌ‐セイシュエルのブドウ畑

ヴィエンヌ-セイシュエルのテロワール

「ヴィエンヌ-セイシュエルの地層は多様だが、コート・ロティに近い。コート・ロティは南北に地層が分かれ、北側はMicashiste(雲母を含む片岩)で、南側はGneiss(片麻岩)の地層。コート・ロティ全体では前者Micashiste(雲母を含む片岩)の面積が広い。ヴィエンヌ-セイシュエルもこの2つの地層の場所が多いが、割合としては後者Gneiss片麻岩の地層のエリアが広い。」

「コート・ロティは東南向きの傾斜面が多いが、ヴィエンヌ-セイシュエルは南向きか南西向き。」

「北ローヌのワイン産地は北風、南風の強い場所だが、この強い風が雨の後にブドウについた水分を飛ばし、ブドウにつく病気を減らすことができる。」

地元の生産者の意見を集約すると、このような感じになります。一般に、Gneiss(片麻岩)の地層のエリアは、女性的な優しいコートロティを産みます。ヴィエンヌ-セイシュエルのワインを試飲すると、その方向のワインが多いと思います。

ワイナリー紹介

● レ・ヴァン・ド・ヴィエンヌ Les Vins de Vienne

シャトードセイシュエルとその周りのブドウ畑
シャトードセイシュエルとその周りのブドウ畑 1996年ヴィエンヌ‐セイシュエルのブドウ畑はここから始まった

イブ・キュイロン、ピエール・ガイヤール、フランソワ・ヴィラールの3人が共同で出資し、廃墟となっているシャトー・ド・セイシュエル周辺の土地4haを購入したのは1995年のこと。翌1996年にシラー種のブドウ樹を植えたのがこのワイン産地の「古くて新しい」始まりです。彼らがこの地の「新たな産みの親」であること間違いありません。

このワイナリーはレ・ヴァン ド ヴィエンヌと名付けられ、赤ワイン:ソタナム Sotanum を1998年にリリースしました。2000年にヴィオニエ種からの白ワイン:タブルナム Taburum、2004年には2つ目の赤ワイン エリュイカム Heluicumをリリース。あれから20年以上経ち、シラーは13ha、ヴィオニエは1.5haとなり、栽培面積が大きく増えています。ブドウ畑は全てセイシュエル内ですが、多数のパーセルの畑から構成されるようになりました。

赤ワインは2種類あり、ソタナムはしっかり抽出がなされて樽熟成期間も長いワイン。長期の瓶熟成が可能なスタイル。エリュイカムは果実味中心のワインで、樽熟成期間も短い。早い段階から楽しめます。「この畑のブドウはいつもソタナム用」と固定されておらず、作柄や熟度に合わせて、ソタナムかエリュイカムに割り振られていくようです。2021年はソタナムの量を減らし、エリュイカムの量を増やすとのことでした。

レ ヴァン ド ヴィエンヌ の ソタナム2021

ソタナムも随分変わったと思います。初期のミレジムは、当時エノローグだったジャン・リュック・コロンボの影響を受け。新樽100%でつくられた濃厚でパワフルなワイン。一方で、若い樹齢からか、どこか単調なワインでした。今は樹齢も上がり、醸造も洗練され、新樽率も半分以下。落ち着いた深みのあるワインになっています。

このワイナリー:レ・ヴァン・ド・ヴィエンヌはヴィエンヌ-セイシュエルのワインだけでなく、ローヌ地方の様々なワインのネゴシアン&ドメーヌであり、年産60万本以上の規模になっています。現在 Pascal Lombard が責任者としてメゾンの指揮をとっています。こちらのコート・デュ・ローヌのワインを日本で飲まれた方も少なくないでしょう。

ヴァン・ド・ヴィエンヌに関わる人達からしばしば次のセリフを聞きます。「我々はコート・ロティの畑を新たに買う必要がない。同じテロワールがあるのだから。」と。近年彼らはコート・ロティやコンドリュー等の傑出した単独畑のワインをつくるようになりました。このヴィエンヌ-セイシュエルの地でそのような単独畑のスペシャルワインができるとすれば、このワイナリーからでしょう。今後どういうワインをつくっていくのか、興味深々です。

● イブ・キュイロン Yves Cuilleron

イブキュイロン の リパシニストラ
イブ・キュイロン の リパ・シニストラRipa Sinistra

北ローヌのスーパー・スターの彼は、レ・ヴァン・ド・ヴィエンヌを共同で経営するだけでなく、独自でヴィエンヌ-セイシュエルの赤ワインをつくっています。リパ シニストラRipa Sinistraです。ラテン語でRive Gauche、左岸を意味します。このヴィエンヌ-セイシュエルの地がローヌ河の左岸を意味することから、この名前になりました。セイシュエル内にあるブドウ畑は約1haでシラー100%。完全除梗で仕込まれます。

イブ・キュイロンのリパ シニストラ、フランソワ・ヴィラールのスール アン セーヌ(後述)、ピエール・ガイヤールのアジアティクス(後述)は、もともと約4ha一塊の畑を分割したものです。

キュイロンの一族は、コンドリューの南にあるシャバネ Chavanay村で、代々園芸・農業を営んでいました。イブ・キュイロンの祖父クロード・キュイロンは、1920年代にはブドウ栽培を行っており、1947年に瓶詰めした記録が残っています。1960年代にブドウ畑はイブ・キュイロンの叔父アントワーヌ・キュイロンに引き継がれましたが、彼の子供達はワイン造りに興味を持たず、1987年にイブ・キュイロンがワイナリーを引き継ぎます。

叔父がワインをつくっていたとはいえ、イブ・キュイロンは元々ワイナリーを引き継ぐことを考えてはいませんでした。現在は200ha以上のブドウ畑を持ち、世界的にその品質で知られるAOC コンドリューですが、1960~1970年代のコンドリューを取り巻く経済環境は非常に厳しく、AOC全体で僅か8,5ha(1965年)のブドウ畑しかありませんでした。ジョルジュ・ヴェルネイの奮闘がなければ、AOC自体が消滅する危機的な時代。実際イブ・キュイロンは、機械・工業系の進路を選んでいたのです。その彼がワインの道を選んだのは様々な理由があったようですが、徴兵制でアルザスに行き、彼の地でワインに親しんだこともあるそうです。結局1986年にマコン・ダヴァイエで栽培醸造の学位BTSを取得。その際に当時名を馳せていたコルナスのドメーヌ・クルビで研修したことが大きかったといいます。

1987年、彼がワイナリーを引き継いだ際、畑は僅か3.5ha: サン・ジョセフ赤2.0ha(100%シラー)、サン・ジョセフ白0.5ha(ルーサンヌとマルサンヌ)、コンドリュー1.0ha(ヴィオニエ100%)で、とても小さいワイナリーでした。ここから凄い勢いで急拡大していきます。1990年代にフランソワ・ヴィラールとピエール・ガイヤールと立ち上げたヴァン・ド・ヴィエンヌだけでなく、コート・ロティ、サンペレ、コルナス、クローズ・エルミタージュに畑を次々と拡張。IGPを含め北ローヌで90haを持つ巨大なワイナリーになりました(コンドリューだけで12haを所有)。それだけでなく、プロヴァンスのワイナリーやカリフォルニアのワイナリーにも関わっています。ペルサンPersanやデュリフDurifといった古代品種の単独醸造ワインも話題になりました。

次世代の彼も加わってきています。イブ・キュイロンの息子さん。既に父と一緒に働き始めているそうです。そっくりですね。

イブキュイロンの息子

● フランソワ・ヴィラール François Villard

彼もイブ・キュイロンやピエール・ガイヤールと共にヴァンドヴィエンヌの共同経営者ですが、同時に自分のワイナリーでもヴィエンヌ‐セイシュエルの赤ワインをつくっています。スール・アン・セーヌ SEUL EN SCÈNE、日本語にするなら一人劇、一人芝居がワイン名。この意味を本人に尋ねると、「要するに、『ワンマンショー』ってことだよ。自分はレ・ヴァン・ド・ヴィエンヌの共同経営者だが、そのワインは3人の意見の集約となるからね。自分の方法論100%でこの地のワインをつくるなら、こうする!ってことさ。」とのこと。エチケットが黒く、カーテンが描かれているのは、劇場での『ワンマンショー』ということなのです。大爆笑してしまいました。実際他の生産者とは異なり、全房醸造をこのキュベに行っています。

フランソワ ヴィラール の スール アン セーヌ
フランソワ・ヴィラール の スール・アン・セーヌ SEUL EN SCÈNE

フランソワ ヴィラールはワイン生産者の息子として生まれた訳ではありません。若い時は調理人の教育を受けましたが、ワインへの情熱から、タン・エルミタージュでソムリエ・コースに進み、その後マコン・ダバイエで栽培醸造の学位を取得しました。1988年のことです。その時の研修先にアラン・パレやイブ・キュイロンがあり、これが彼のその後の発展に繋がっていきます。

1989年に自ら開墾したコンドリューの畑に苗木を植え、1991年に収穫・醸造したのが彼のワイナリーの最初のワイン。僅か数百本で、当時はカレージワイナリーの規模でしたが、彼のワインは大きく評価され、北ローヌの各地にブドウ畑を取得。今では40haの規模になりました。

彼の最近のワインはフィネスを感じさせます。スール アン セーヌ SEUL EN SCÈNEはそれがよく出ていますね。

● ピエール・ガイヤール Pierre Gaillard

ピエール・ガイヤールは、アジアティクス Asiaticusというシラー100%の赤ワインをヴィエンヌ‐セイシュエルの地でつくっています。ワイン名は、紀元1世紀ヴィエンヌ出身の政治家で、古代ローマ帝国の元老院で活躍した Decimus Valerius Asiaticus からとられています。

ピエールガイヤールのアジアティクス ASIATICUS

ピエール・ガイヤールもワイン生産者の息子ではありませんでした。両親はフランス国鉄勤務で、彼もリヨン郊外のVénissieuxで生まれたのです。子供の頃両親がTernayの田舎に家を買い、その庭に小さなブドウ畑があったことが彼の人生を変え、農業を志すようになりました。ボーヌでBTS、モンペリエ大学でDNOといった栽培醸造の学位を取得後、パリジェンヌと結婚してパリで庭園関係の仕事につきました。その後、1981年にコート・ロティのヴィダル・フルーリーの畑の責任者となります。そこでコート・ロティの畑ラ・トュルクの畑を自ら開墾していった話は有名です。「自分がヴィダル・フルーリーに入社した時、機械化が難しいテラスにあるラ・トュルクの畑は放棄されていた。コートロティのワイン価格は非常に安く、採算に合わないというのが社長の考え方だった。でも、自分はボーヌで学んだから、ブルゴーニュのトップ・ドメーヌのワインが評価されて価格が上がったことを知っていた。いずれコート・ロティにもその流れが来るだろうし、ラ・テュルクの畑で極上のワインができるだろうって考えていた。当時自分は若くて血気盛んだったから、社長に交渉して自ら開墾して新植した。1984年ミレジムのラ・テュルクは新植直後で樹齢が若く、コートロティを名乗れずヴァンドペイの扱いだったけど、強烈な味わいだった。ギガルの連中が試飲に来て驚愕していたよ。」と言います。彼の勤務先のヴィダルフルーリーは1984年にギガルに買収。ラ・テュルクの畑もギガルに移りました。1985年のコートロティ・ラ・テュルク は若木による最初のミレジムでしたが、いきなり評論家ロバート・パーカー100点満点を獲得。ギガルのイメージを大きく上げただけでなく、コートロティというワイン産地のイメージを大きく上げることに貢献したのです。

ピエール・ガイヤールはヴィダルフルーリー&ギガルに勤務しながら、自分の土地を購入、開墾してブドウ畑にしていきました。サン・ジョセフのクロ・ド・キュミナイユ Clos de Cuminailleやコート・ロティの一部の畑はこの時期に植えられ、1985年にはボトリングがされています。ピエール・ガイヤールは1986年にはギガルを辞め、自分のワイナリーに専念するようになります。この後北ローヌ各地の土地を購入・開墾していった彼のワイナリーは大きくなっていきます。1990年代のヴァン・ド・ヴィエンヌの後、北ローヌだけでなく、南仏のバニュルス&コリウールへの進出や、ラングドックのフォジェールへも進出し、合計で77haものワイナリーへと拡大しています。近年は彼の3人の子供が活躍する時期に入ってきています。

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